長教寺の歴史

文明12年(1480)に開山した、浄土真宗本願寺派 宗教法人 万年山 長教寺。

神巧皇后による古処山麓の熊襲征伐の折、従軍した肥前国平嶋の子孫にあたる平嶋七郎右衛門明善による開基とされています。

鎮圧された熊鷲が野山を開拓したことから、周辺は熊ヶ畑と呼ばれるようになったと伝えられています。

長教寺の歴史

長教寺の縁起

当寺開基は平島七郎右衛門人道明善也
住古より筑前の國嘉麻郡熊ヶ畑巴中曾に居住し名田七十石を抱き居り代々七郎右衛門と称す

相伝に曰く其の先肥前平嶋の人也神功皇后古処山の熊襲征伐の砌り平嶋より剛強の士を引率し玉ふ熊襲及その徒類熊鷲共に王化に服し当地に蟄居せり依って熊鷲の押へとして平嶋の人を留め玉う

人熊鷲一旦天命に違背せるを悪み熊々と貶称せり

熊鷲勇猛膂力人に絶す即ち山野に畑を掘り拓く人呼んで熊が畑と云へり即ち熊ヶ畑の名の起る所以也

熊鷲を葬りて板山殿と申す墓ありと伝う而して平嶋の未裔今に連襲し七郎右衛門は其の後胤也

文明年間七郎右衛門豊前の田河郡弓削田村に天然和尚(天台の硯学周防山口の人也

守衛大内義弘の曽孫也

蓮如上人の直弟子として弓削田法光寺の開基也)に帰依師範とせり

明応六年己春七郎右衛門上洛天然和尚の手寄せに依り亦先年より佛光寺経豪上人(本願寺脇門跡興正寺の開基)の吹挙ありて
山科御坊に本願寺八世蓮如上人に謁し御観化を蒙るに悪人攝取凡人直入の法義を聴聞し歓喜の余り六字の名号を書き興へて汝故郷に帰り法義相続し郡類を導くべしとの玉へり
明善感涙肝に銘じ名號を頂戴して下向す

而して徒類眷属を勧め我が家を道場となし名号を安置し禮拝供敬常時給仕せば信心の徒遠近より門徒に参加し且越弥に繁昌法義益に盛也

爾後念佛道場として法義相続し連襲今に至れる

当山長教寺は1480年、ここ嘉麻市熊ケ畑に真宗念仏の道場として念仏の灯火が点ぜられて以来、
530有余年門信徒の皆様のお力添えによって、今日までその法灯が継承されてまいりました